おしゃべりぼくろ

万年筆と手帳と文房具が好き

わたしは父を亡くした

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先日、わたしの父が亡くなった。
63歳だった。
今の時代ではお世辞にも「長生き」とは言えないけれど、父は大腸がんと2年弱精一杯戦ったから、心からおつかれ様でしたと言いたい。


この文章は誰かに報告する文章ではない。
そして同情を欲して書いているわけでもない。
ただ、自分の心の整理のために書いていく。


 

父の身体から癌が見つかった時もうすでに肝臓に転移していて、なのでステージは4だったのだと思う。
その話を電話で聞いたとき、初めて父から聞く類の声色に酷く動揺した。
父はそれよりも動揺していたようで、自分の病状をうまく説明できないようだった。



冷たいと思われるだろうが、わたしは父の病気が見つかってから一度も会いに行かなかった。
仕事が忙しくて「行けなかった」のではなく、自分の意志で「行かなかった」


父の声を聞くのが嫌で仕方なかった。
元気だった頃の、何度も同じことを繰り返す父の声を疎ましく思っていたし、
かと言って病気をして弱りきった声を聞くのも嫌で、だから電話も数えるくらいしかしていない。
何よりも現実を受け止めるのが怖かった。




後悔がないかと言えば嘘になる。
深夜に心がぐっと重くなることがあって、その時はじっと眠くなるのを待つ。
ただ、わたしに何か出来たとも思えない。
わたしは運命という言葉は信じないし、お互いの選択した言葉や行動が、今回の結果につながったんだと思っているから、後戻りできたとしても同じ行動を選択しただろう。




ただ一つだけ。


母がわたしを抱きしめて肩をさすりながら、「ごめんね、こんな風になったのはお母さんのせいだ」と言って泣いたのは忘れられない。
母は何も悪くない。もし母が悪いとしたら、父も悪いのだ。



わたしは母子家庭で育った。
離婚の直前に祖母が亡くなり、母はストレスが原因で入院し、父はいつの間にか会社の宿舎に引越していなくなっていた。
わたしもわたしでその頃は酷いいじめにあい、不登校だったので、ひとりぼっちの家で毎日泣いた。
その頃は自分もしんどかったから何だか記憶が曖昧で、何月に離婚して、何月に引っ越して、どう過ごしていたのか、よくわからない。



当時のわたしは父のことも母のことも嫌いだった。


ここに書けないような様々なことがうちの家庭では起こっていた。
わたしは子ども心ながらに誰に言っても仕方がないことを分かっていて、だから、本心を隠すようにじっと生きていた。



でも一人暮らしをして、母がわたしにしてくれていたことを理解して、ようやく母を許すことができた。
それでも父に対してはずっと意固地なままだった。


母のことは許せて、どうして父のことを許せなかったのか。


父を許すことが出来ていたら、父も、わたしも、母も、救われたのだろうか。もっと穏やかにこの時を過ごせたのだろうか。
けど父は、リーマンショックがあってからわたしの住む地元から離れて仕事を続け、定年間近に大病をして亡くなった。
父は病床で何を思ったのか、想像がつかない。




初めての父の月命日、深夜眠る前に、ぽつぽつと彼に話していて、すこしずつ気持ちが整理出来てきた。


「どうしたらいいのか分からない」


わたしは悲しいとか苦しいとかそういう簡単に表すことのできる感情ではなく、複雑な感覚に陥っていることをたどたどしく説明しながら泣いた。
彼は黙っていたり、「よく話してくれたね」とか言いながら、2時間、ずっと話を聞いてくれた。


話しているうちにやっと喉につかえたものが飲み込めた気がした。



今自宅では最後にわたしたちが会った、空港で話しているときにふと思いついて撮った笑顔の父の写真を飾っている。
父が亡くなって遠方から帰って久しぶりにカメラからそのデータを発掘したとき、涙が止まらなくなった。


あんなに優しい顔をわたしに向けていたことをすっかり忘れていた。
わたしの記憶にあったのは、電話口で怒鳴っている声と病に臥せてしゃがれてしまった声だけだったのに、
こんな風に笑う人だったかと本当に驚いた。



父は不器用な人だった。
その欠片はわたしにしっかり受け継がれているから、今なら分かることがある。
分かりにくくとも、その行動が小さくとも、間違いなく父はわたしを愛してくれていた。
最後は亀裂が入ってしまったけど、過去に過ごした日々がなくなる訳ではない。



父は身体がなくなって、病や痛みやしがらみから自由になった。
もう姿は見えないけれど、何だかいつでも会えるような不思議な気持ちだ。
父がわたしを傷つけることはない。わたしが父を傷つけることもない。


わたしも自由になる。